ここネット通信号外   〜岐阜県可児郡御嵩町・願興寺から得られた考察(現代教育・科学と仏教信仰について)No.2〜




 前回の御嵩町小旅行から何も得るものがなかったと思われるのは、
少々、つらいと思い、住職のお話の中でも出てきた、教育思想と仏教信仰に
書きたいと思う。


 キリスト教社会の欧米では、教育を施されるのと同じか、それ以上に需要とされるのが、
キリスト教の信仰心をもつこととされているが、日本では特に仏教に対して、教育の邪魔者
扱いされているのが実情である。
 なぜ、教育者は仏教について、教えるのをためらうのか、それは仏教が明治時代からの
工業社会についていけなくなったからだと思う。
願興寺の住職の話にもあったが、明治時代からの廃仏毀釈により、仏教徒が神道信仰にかわり、
それにより、仏教徒の約半分が、神道の教徒にかわってしまったらしい。



 それは、仏教に対して、比較的穏健な立場をとる、岐阜・美濃地方でも同じで、
一番有名なのが、各地域にある、お地蔵さんの顔を削り取るといった、極めて愚行をした
過去がある。
 江戸時代の最後期まで、仏教徒がほぼ100%近く、いたらしいが、明治維新の
富国強兵政策により、個人の信仰までふみいって、大変な目をした時代を日本国民は経験してきた。



 私は、宗教に対する信仰心を取り戻すため、”仏教徒にもう一度立ち戻れ”という教徒ではない。
戦後つくられた日本国憲法にある通り、個人の信仰の自由は大変尊重されるものだと考えている者である。
仏教徒の間ではいまこそ、仏心を取り戻すため、”もう一度仏教徒としての修行の道をすすむべきだ。”
と考えている信徒も多い。だが、仏心をもつことは、私もいろいろ経験したが、いかに大変なことであるか
痛感している。
 自分も阿弥陀信仰をもっている信徒であると気づかされたのは、30年以上生きてきて、ここ6か月ぐらいのことである。
それまでは、神道の教徒であるか、もしくは実利・実益を重視する傾向があるので、観音菩薩の信仰であるか
非常に迷った時期があった。



 いろいろな経験をしながら、それを糧として、なんとか阿弥陀信仰を勝ち取ったみたいなところがある。
阿弥陀信仰といえば、”仏法の下ではみな平等である”という教えを教徒に説かれる信仰であり、
阿弥陀仏は”叡智の仏”といわれている。


 自分が”叡智”というところに大変ひかれたのはいうまでもない。
叡智というのは、”概要・製品化・商品化”というものづくりをたどるとすれば、
概要の部分をつくりだせと説かれる思想である。



 概要は誰にとっても、もちろん一流の研究者といわれる方でも非常に難しい部分である。
”概要”ができる人は社会にとって、大変尊ばれる存在であるところは、
古今東西を問わず、当たり前であるが、その領域は、宗教心がなければ、成し遂げられない
ことは言うまでもない。
西洋では、今までのいろいろな過去の工業化の経験から、その”概要”がいかに大切であるか、
特に欧州では当たり前のようにいわれているが、日本ではそうではない。



 この根本的な日本と西洋社会との様々な見解の相違は、仏教徒の間での
科学に対する、理解不足によるところが大きい。
”科学を尊ぶ流れは、無信仰の流れと同じである。”と教える極めて誤った見方が背景にある。



無信仰に対して、極めて様々な考察がなされず、思いつきや決まりきった個人や宗教組織の古くからある見解
が科学に対する立場や見方をきわめて危うくさせている。



科学を尊ぶ姿勢が身を危うくさせるとか、理系を中心とした教育に熱心になりすぎると、
仏教の信仰心が失われてしまうという非常に大きな危惧感があるのはいうまでもない。


 だが、そんなに簡単に仏教の信仰心がなくなってしまうのであろうか。
個人の信仰は、”こころ”の問題である。



”こころ”は、確かにその信仰が存在しているものであると確認されれば、
そんな簡単になくなるのではない。



信仰がどの信仰であるかを探し出すのは、先にも書いたがいかに大変なことであるか。
簡単に住職から、あなたはこの仏、例えば、観音様について信仰心を持っているよと
教えられれば、これほどたやすいことではないが、住職の側から考えても、
それが難しいのは言うまでもない。



 いろいろな仏教をめぐる小旅行を通して感じたのは、上記にあることを
いろいろ教えてくれる体制がきわめて重要であると強く感じた。
もし、仏僧であれば、もっといろいろな社会にでて、それらを教えてくれることを
積極的に行ったほうがいい。



教えをこわれるのが嫌だと考えている人はそのままでもよい。
”もっと積極的に仏僧とお話をしたい。”と人は、自分から、仏教でいえば、
寺院に入っていくことも必要である。



もっと宗教、特に仏教にたいして、”寛容になれ”ということではない。
自分自身が一体、どういった思想・哲学を有しているか自分自身に問いかけて
見直してみる必要がある。



 簡単に言ってしまえば、釈迦如来信仰であれば、”自由”を、阿弥陀如来信仰であれば、
”平等”を。
 どういった思想・哲学を普段からもっているか、もう一度、問い直し、
よく頭の中を整理して、いろいろな思想が混同しないようにする必要がある。


 自分もまだまだ、精神鍛錬をしている最中であり、やっと阿弥陀如来信仰の教徒であるかを
見つけ出したばかりである。



 まだまだ、阿弥陀仏の”叡智”について、分からないところだらけで、
一応、英語で”WISDOM”と訳してなんとか理解しようとしている発展途上の段階である。



 これからの信仰の道筋を決して平坦ではないが、なんとか頑張ってみようと考えているところである。