ここネット通信号外   〜愛知県江南市の曼陀羅寺にて〜




 久々の号外である。
 この以前の号外にもいろいろなところに日帰り旅行に行ったが、
こうやって書くには話題性に乏しいと思い、書かなかった。



 今回の江南市曼陀羅寺の旅は、一生の思い出に残る旅となったので、
喜んで書きたいと思う。
 まず、曼荼羅を見たいと思った”いきさつ”に書きたい。



曼荼羅は、このように寺社、神社、城めぐりをする前から、
一回は見てみたいと思っていた仏画である。
 関市に日帰り旅行に行った時は、関善光寺で阿弥陀三尊像を見たが、
宗教的にも、政治的にも、他のもろもろなことでも、中立や中道といった
精神はどういったものだろうかと考えるところから始まった。



 関善光寺に行った時は、阿弥陀像を中心として配列し、その両隣りに、
勢至菩薩、観音菩薩を配置してあった。
ゆっくりと阿弥陀像を中心として眺めると、その全体の”様”が
いかにも均整がとれており、非常に三尊像が尊く思えた。
ここから、”中立、中道とはなんぞや”、もしくは”平等とはなんぞや”
という自分への問いかけが始まった。
阿弥陀三尊像は、私にとって、”中道とはなんぞや”という自分のへの問いかけに、
剛速球のストレートを投げて返してくれたような感じだった。
”ああ、これが中道か!”と率直にうなずけた。


 曼荼羅を見に行ったのは、”中道とはなんぞや”というより、
”中立とはなんぞや”もしくは”真に平等とはなんぞや”という問いかけに
答えてくれるのではないかと思い、自宅に比較的に近いところに出かけてみることにした。



 もちろん、曼荼羅を見るのは初めてである。
私が、阿弥陀如来信仰の教徒であることもあり、阿弥陀曼荼羅をわざわざ選んで、
インターネットで探して、たまたま、その拝観の行事がある江南市の曼陀羅寺に、
行ってみることにした。



 当日は、雨降りであったが、多数の拝観予定の観光客でいっぱいであった。
境内は、ひとごみであふれていたが、阿弥陀曼荼羅がおかれてある本堂に、
拝観料を支払って入る人たちはごくわずかで、ちょっと気が引ける思いもあったが、
せっかく、25年に一度の曼陀羅の御開帳であるし、ここは、少々拝観料が高くても
見てみる価値があると思い、ひとごみの中を、ぬうようにして、入ってみた。



 いろいろな仏像やら、仏画やら、お庭やらを見たが、曼荼羅を見たときの様子について、
書きたいと思う。
最初にちょっと見ただけでは、ただの古い仏画にしか見えなかったが、
ぐんぐんと引きつけられるような雰囲気があり、
それだけで、どんどん圧倒されるような感覚をおぼえた。
もっとゆっくり、じっくりと言葉は悪いが、確かめるように見てみると、
まるでこの世のものとは到底思えない情景が頭の中に浮かんでくるような感覚がした。



 「これはすばらしい」、「信じられない」とつぶやいてしまった。
何がそのような感想をもらしたかというと、どのような技量・技術・技能などを
持っている人たちでも等しく平らかに、何のわけへだてもなく、区別もなく、
楽しく暮らしているかのように思えた。
自分にはそれがショックで、いたしかたなかった。
この世界は極楽浄土をあらわしているとあったが、それよりも、
古くから昔話に出てくる”桃源郷”をあらわしているかのように思えた。



 ”中立とはなんぞや”という前に自分の間違った固定観念を正されたようで、
今までの自分のしてきた行いの誤りに気付かされたようだった。



 曼陀羅寺の帰りは、コーヒーショップでサンドイッチとアイスコーヒーを飲んで、
ボーとして、いろいろと思いをめぐらせながら、自分の”いたらなさ”を”はーあ”と
ひといきつき、ゆっくりと食事をした。



 素晴らしきかな曼荼羅、素晴らしきな仏教、いろいろな思いがした。